ぼちぼちおうち生活

浅く薄く移ろいゆく趣味と住居の覚え書き。

現実かもしれないし

自分の認識しているものが、妄想なのか現実なのか

見分ける自信が無くなってきた、と書いた時に、

むりに分けることはないのではないか、

というコメントをいただいた。

確かに哲学にはそんなような考え方があったなあ

我思う、ゆえに我あり、だっけ?)

などとぼんやり思い出したりしたけど、

ひょっとして問題になってくるのは、

ソレが現実であるかどうかよりも、

そこにくっついてくる別のモノなんじゃないかと思えてきた。

たとえば攻撃性にむすびつくとか。

たとえばそのことに考えがとらわれてしまって粘着してしまうとか。

認識していることそのものが問題なのではなくて、

その認識に基づいて誰かを攻撃したり嫌がらせしてしまったり、

周囲の反応や常識とのズレがすごく大きいのに、全く修正が利かないとか、

そういう部分がまずいのではないかと。

そう考えてみると、

攻撃する気持ちに結びつかず、しょっちゅう「んー?、気のせいか」で済ましているのなら、

別にそのままでもいい・・・のかな。

たとえばUFOが飛来して宇宙人が降りてきても、

気のせいで済ましちゃえば問題なし。

ミステリーサークルが出現したとしても、

近所の悪ガキのイタズラだと思わず風のせいだと思うなら問題なし。

そんなかんじ?

(ちょっと違うか)

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6月にいったん仕舞いこんだモノを、すぐ取り出せる場所に置くことにした。

妄想と呼ぶには余りにつじつまの合うことが多く、また

ほとんど物的証拠と呼べるようなものを確認しつつあるからだ。

もう妄想と呼んで逃げるのはやめる。

ちゃんと正面から向きあって、きっちり落とし前をつけたい。

いや間違えた。

落としどころを見つけたい。