ぼちぼちおうち生活

浅く薄く移ろいゆく趣味と住居の覚え書き。

映画をみて翌日に残るもの

きのう「幸せになるためのイタリア語講座」を見た。
とても良い映画で、見終わって、
みんな幸せになって良かったー・・・と暖かい気持ちになった。

ところが映画の翌日の余韻というのは何が残るかわからない。

「アバウトシュミット」の翌日は作中に出てきた小物、ブンメル人形で
頭の中が占領されてしまった。
真珠の耳飾りの少女」の時は時代背景とフェルメールについて
調べまくった。
「女はみんな生きている」の後はなぜか掃除をしまくって、
マーサの幸せレシピ」の後はあまりに作品を愛しすぎてブログに書けず、
作中で使われた曲を取り寄せて、聴きながら料理を作りまくった。

そして「幸せになるためのイタリア語講座」。
今回はとりわけ、直後と翌日の余韻とのギャップが激しかった・・・。

カーレンのお母さんに感情移入してしまったからだ。


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たまにネット上で見かける言葉なんだけど、
「生きていてもいいですか」
って言う人がいるよね。
とりたてて悪いことしたわけでもないのに。

いつも見かけるたびに、
なんだそりゃー?誰に許可を求めるんだろう。
と思った。

道ばたに咲く花は道行く人を喜ばせるために咲いているのではなく、
お日さまや雨の恵みを受けて、土から養分をもらって、
日照時間に従って花を咲かせているのだと思うから、
同じように、
お日さまの光を感じて、おなかがすいたらご飯を食べて、
やれるようにやっていけばいいんじゃないの?
人生の目的とか意義とかはあればあるでよし、なければないでよし。

だけどこの年にして、
その人たちがどういうことをどういう気持ちで言っていたのか
やっと分かった気がする。

この映画の中で、亡くなる人の数はけっこう多い。
そしてそれが登場人物たちの幸せにつながっていたりする。
もちろんカーレンたちはそれを(たぶん)望んではいないし、悲しい事だ。
だけどそのおかげでベニス旅行に行けるのも事実。

この映画は、邪魔者がいなくなることで幸せになっていく様子を具体的に見ることでもある。

自分の存在自体が誰かの幸せを阻害していないかどうか恐れる、ということや、
自分がいなくなれば誰かが幸せになれるのかもしれない、ということ。
「生きていてもいいですか」
という言葉はきっとその怖い思いつきを誰かに消してもらいたくて出てくる問いなのだと思う。

私自身、体が弱くて出来ないことが多いので、
・・・もしや私がいなければ、夫や娘にもっと丈夫な、
いい妻・母親がやってくるチャンスがあるかもしれない。
私が存在することでそのチャンスを阻害しているかもしれない・・・?

何年も前に悩まされ、抜け出して、
忘れかけていたこの問いを
もう一度つきつけられることになった。

(冷静に考えれば、この問いには無理がある。
 うちのダンナはそんなに格好良くない上にオンナを見る目がない。)

・・・・昨夜からそういうことを随分考えた。

だけどよく考えたら、
考えても仕方ないのね。

そういうことを考えてるよりも、とりあえずベランダの花に水をやろう。