ぼちぼちおうち生活

浅く薄く移ろいゆく趣味と住居の覚え書き。

ヘルムート・リリングの第九

昨夜の第九を聴いて、なんだかものすごく反省してしまった。

毎年、大晦日にはNHKで第九をやっている。

毎年同じ交響楽団で、同じ音大の学生が合唱をつとめる。

きのうの第九は、丁寧につくられた品のいい和食のようだと思った。

はじめは薄味でものたりないかと思う。

特別に目をひくようなものはないが、

ひとつひとつ、丁寧に素材の違いを際だたせてあって

味わううちに飽きずに箸がすすんで、

聴き終わった時には静かな満足感で体中が満たされる。

滋味溢れる演奏であった。

第九といえばもっと大味なものかと思っていた。

オーケストラと大合唱の大所帯による華やかで躍動感のある演奏をして

最後は疾走感とともに爽快に締めくくるものだと。

そういうものだと。

時代によって変遷してきて現代ではそういう演奏をされることが多くなり、

実は細かい音符が多いけれどもスピードを優先させ、

何度もやっているから時に慣れと妥協が混じる・・・・・。

だけどきのうの第九は全く違った。

昔と現代で解釈などの分かれる部分は、

どうも全て古典を採用しているらしい。

いつもは埋もれて聞こえない音が聞こえる。

どんな部分もおろそかにせず細部をきちんと確実に

音符に忠実であろうとする意志がくっきりと伝わってきた。

素材はほとんどいつもの年と変わらないのだ。

同じ交響楽団、同じホール、同じ合唱、同じ曲目。

それでこれほどまでに違うものになるものなのか。

ソリストのソプラノがまた良かった。

声量にも音域にもまだまだ余力を残した余裕のある声で、

余力はあるけど他とのバランスをちゃんと考えてあって、

なおかつ音程もテンポも完璧な、端正なソプラノだった。

仕方ないよ、とか、そういうものだから、で流されて、

いかにいろんなことを見て見ぬふりをしてきたことか。

何かを優先して何かを妥協するのはある程度のまなくてはいけないことだけど、

妥協しなくていいところまで妥協していなかったか。

他の人たちがどうしてるかなんて全く考慮する必要のないことまで、

ふつうはこうだから、なんて言って自分の本当の好みをちゃんと見ないでいるうちに

自分の本当の好みを置き去りにして、

あげくにソレを手に入れてる人を見つけて(いいな~)なんて思ったり。

すごく反省した。

年末にその年1年を振り返るということだけでなく、

自分のこれまでのことをたくさん反省した。

ヘルムート・リリングのポスターをはって拝みたい。